わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

須賀西町

平塚の道祖神 (旧市内)

須賀西町

最終更新 1998年5月

千石河岸5-20路傍
須賀の道祖神には鳥居や小屋が設けられている所が多く、ときには二重祠もあり、またこの西町のように大きな社殿を持つなど、その丁重に祀られている様は、 他では類を見ない。かつての社殿には、猿田彦の木造を祀っていたが、社殿とともに昭和20年7月の平塚大空襲で焼失した。 現在の御神体は、小さなお宮(中宮という)の中に納めてある木札で、社殿に安置してあるので普段は見られない。 社殿の前に下がる鈴緒を包んでいる網には多彩な編み目が施されており、鈴緒を通す六角形の木枠に「奉納 浅八丸 平成元年三月吉 伝平網」と記されている。 浅八丸は船元(釣宿)の金子長太氏、伝平網は地曳網網元の古田鱗作氏。三嶋神社を始め、須賀のいくつかの社で見かけるこうした鈴緒は、ほとんど古田氏の製作による。 西町道祖神の世話人は九人で、宿に当たった年は、毎月十四日に社殿へ御神酒と灯りを上げ、賽銭箱を回収する役目がある。セエトバライには、 西町内の7・80軒くらいの家が各千円程度賽銭を納める。八日にオンビョウを立てる。 昔は、お供えの下に敷いて黄色くしみの付いた紙を子どもたちが町内を回って集めたものを使用したが、 現在は半紙500枚と五色(赤青黄桃紫)の色紙100枚の計600枚くらいの紙を買って作る。オンビョウの頂部には松の枝を挿す。 15日は社殿を幟、紅白の幕、「西町道祖神」の提灯で飾り立てる。午後に国道129号線の突き当たりの浜でセエトバライを行う。 三嶋神社の浜降りが行われる場所である。中心にオンビョウを立て、まわりに積み上げたお飾りの中に、御神体を納めた中宮を入れ、点火後すぐに取り出す。 終わるとハチハライといって一杯飲み、当番の引継を行う。須賀は講中組織の結束も固く、祭には町内毎に幟が立つ。 当然、道祖神祭も盛んである。セエトバライについては、「須賀の道祖神まつり」と『平塚市須賀の民俗』に西町の模様が詳しく記述されているので、これらをもとにまとめてみることにする。 以下はおおむね戦前の様子であり、現在は簡略化がすすみ、この通りには行われていない。 暮れの内に世話人会を開き、道祖神祭の打ち合わせを行う。 三ケ日が過ぎると子供たちは毎晩のように宿の家に集まる。西町の場合、宿は社殿に隣接する飯尾家が当たることが多く、道祖神自体も元々は近くの飯尾姓数件で祀り始めたという。 宿に集まった子供達は、町内名を書いた提灯をつけ、「塞の神講中」と称して町内の家々をまわり、お供えに敷いた半紙などを集める。 このとき、「せえのかみのごえんじゅ せえ みえみえ おいどうえ 一文ぜにをほしがって わらの毛でなぐられて おいててえも ねえもんだ」と賽銭を集める文句を唱え、 用意してきた笊に入れてもらう。たくさんくれると「金ぐら建てろ、金ぐら建てろ」と囃したりした。賽銭は道祖神への寄進という意味があるので、 たいていの家は気持良く出してくれたが、出し渋る家があると、道祖神の境内から持ち出したゴロゴロ石をその家に放り込む。 放り込まれた家は、その年はどうも良くないことが続くと考えられていた。こうしたお賽銭集めはセエトバライ前日まで続く。 八日にオンベ(オンビョウ)作りを行う。オンベとは4縲怩Vメートルくらいの孟宗竹に幣はくをたくさん取り付けた大きな御幣である。 幣はくには、子供たちが集めた半紙や買ってきた赤青黄の紙を用いる。オンベの頂部にはミタマという御幣をつける。 ミタマはオタマシともいい、神主から金色の紙を貰って取り付けた。オンベの製作は世話人の仕事で、宿に集まって行う。 昔は各町内とも立てたが、現在は南町と西町のみである。一方、子供たちは宿の庭に、各家から集めたお飾りなどで仮小屋を作り、ここで煮炊きして食事をとるなどする。 出来上がったオンベはひとまず鳥居前に立てられ、夜になると子供たちが大勢で担いで、オンベの比べっこを兼ねた賽銭集めに出かける。 オンベの比べっこというのは、よその町内のオンベと出会ったとき、「おんびょう くらんびょう くらべっこに持ってこい」と叫びあって、互いのオンベをぶつけ合ったり、 オンベのむしりっこをすることをいう。紙の幣はくはたちまち千切れて見る影もなくなるが、逃げ出したほうが負けになるので、大将を中心に一致団結して戦った。 八日以降、子供たちは仮小屋の前で仮面をつけて神楽の真似ごとをしたりして楽しむ。女子は見物側であった。仮面をつけたまま賽銭を貰い歩くこともあった。 十三日の晩は、子供たちが小屋や宿に泊まった。十四日未明、宿に集まった子供たちは「六根清浄」に出かける。六尺ふんどし一本に鉢巻のいでたちで、鈴を鳴らし、 「六根清浄」を唱えながら寒風を切って揃って浜に駆け出す。波打ち際の水が引いたばかりのきれいな砂を素早く取って、各自持参した鉄砲笊という竹笊に入れ、 「六根清浄」の掛声とともに戻ると、まず道祖神にお参りしてめいめい笊の砂を一つかみ供え、次に三島神社に供えに行き、それから竜宮社、稲荷、 町内各家々の玄関先に一つかみずつ供えるのである。この砂を潮花と呼んでいる。子供たちがうっかり砂を置き忘れた家があると、あとで宿に苦情が持ち込まれることもあった。 冬の早朝に裸で駆け回るのであるから、寒さを吹き飛ばそうと「六根清浄」を声の限り叫んだり、走り回ったりで、夜明け前から町中大騒ぎであった。このようにしてひととおり砂を供え終わると、 皆で銭湯へ行って身体を暖め、そのあと宿に集まって甘酒を飲み、ご馳走をふるまわれた。昭和初期までは、前年の一月十四日以降に嫁を貰った家へ、 大根や人参で作った男女の性器をお盆に乗せて袱紗を掛け、まだ何も知らない子供に「この度はおめでとうございます」と持って行かせ、御祝儀を貰った。 大根の先に十字を刻み、油と鍋墨を練り合わしたものを塗り、嫁さんの顔や腹に押しつけることもあった。付けられた墨はなかなか落ちなくて困ったという。 また、男の子が生まれた家は宿に酒一升を納めた。午後になると、仮小屋を取り壊して浜に持って行き、小屋の材料に用いたお飾りなどをオンベの周囲に盛り上げ、 火を付けて燃やす。戦後しばらくまでは、須賀の各町内とも、西町や南町のように浜にサイトを並べ、勢ぞろいして行った。西町の場合、 積み上げたものの中に御神体を納めた中宮を入れておき、点火後燃え上がると素早く中宮を取り出す。このように火を燃やすわけは、 疫病神が誰々を病気にさせようと書いて道祖神に預けておいた帳面を焼いて、町内の人々が疱瘡や麻疹で苦しめられないようにするためだともいった。 昔から道祖神は悪疫から守ってくれる神と考えられており、病気治癒の祈願が叶えられるとゴロ石をひとつ供えたりした。 このため、道祖神の境内にはゴロ石がたくさんあるのだといい、ゴロ石の数を競った。また、『平塚小誌』には次のように漁との関連を記す事例が載っている。 「須賀では以前鰤大謀網が始まってから、正月十四日のサイト払いの日には十三隻の鰤網機械船が夫々米一升宛を道祖神に奉納する。大漁祈願のためである。 ある年子供達がその米を貰いに行ったら一隻の船が拒絶した。すると不漁で須賀港はあがったり。あわてて米を奉納しておわびしたら大漁となったので、 以来鰤と米を必ず道祖神に奉納して今日に及んでいるという。」

西町の道祖神社殿



オンビョウ

中宮を浜に持ち出す

セエトの中に中宮をいれる

セエトバライ
ページの先頭へ