上吉沢2252南の路傍 |
2基の双体像はわずか30年足らずの間に造立されており、2基の良好な状態からみて、もともと別の場所にあったのを一ヶ所にまとめたと考えるのが適当であろう。 それには、2基とも銘文に「山入」と集落名が記されているのが問題になるが、これは山入が二つの集落に分かれていたと考えることで解決がつく。 現在は、山入と四十畑が一緒に祀っているが、四十畑はもともと山入の一部であり、分かれたのは戦後になってからという。 しかし、『風土記稿』には、「山入前谷津」と「山入後谷津」の二つの小字に分かれていたことが記されており、現在の山入と四十畑の区分もこれに相当していると考えられる。 両集落は互いに別々の沢筋に沿って集落を形成しており、地形的にみても道祖神祭祀を別々に行っていたことは想像に難くない。 なお祭場は明治時代には現在の集会所のすぐ下にあり、その後三回程移動している。 |
祭場 道祖神の囲いの中に三つに折れた石棒がある。また、盆具が納められる場所でもある。 |
元文5年(1740)双体像 左神は袱紗の上に宝珠を両手で捧げ持ち、右神は袖中合掌の美しい双体像で、状態も良い。袱紗に宝珠を持つ像は、土屋大寺分人増の二基のみである。 <型>舟型 <材>安山岩 <寸>35×26×17 <銘>(正)山入 元文五庚申十二月吉日 |
ともに有冠袖中合掌像。明和6年(1769)双体像 <型>舟型 <材>凝灰岩 <寸>60×36×16 <銘>(正)明和六丑十二月吉日 {吉}沢山入氏子 |