萬田字姥ケ久保に所在し、進和学園職業補導室の北側南斜面と貯水池の東斜面の二カ所に分布しています。横穴墓群は宮ノ入横穴群と同じ、二宮層の凝灰質シルト岩を穿って構築しています。明治31年、八木弉三郎氏等によって調査が行われました。この調査は平塚考古学史の嚆矢となる記念すべきものです。昭和50・51年、56、平成6年の4回調査が行われています。第1回は明治31年10月、東京大学人類学教室の教授であった坪井正五郎の嘱託を受けた八木奨三郎・武田安之助・水谷乙次郎・村高幹博の四名は現地を21日から24日まで調査を行っています。具体的な図面等は不明で、出土した品名は記載されているのみです。第2回は本横穴墓群は基本的には2カ所に分布しており、杉山氏はこの2カ所の全体を作成し、進和学園職業補導室の1群9基で構成される横穴墓の内、5基を実測した。第3回は南側に分布する18基(内4基既開口)が調査されました。構造は玄室と羨道部の境のつかないものが多く、奥壁に棺座を構築し、天井部もアーチ型を主体とするものです。羨門の閉塞には基盤の岩塊が使用されていまする。副葬品は須恵器甕・壷・瓶・横瓶・はそう・高坏・坏・蓋、土師器坏、鉄製品直刀・刀子・鉄鏃、耳環、玉類勾玉・管玉・切子玉・子玉等が出土しています。第4回は1基を調査しているが、開口するものやボーリング調査により、南側部分(昭和56年の杉山調査)を除く北側部分で31基を確認しています。本横穴墓群は平塚の考古学史を飾る最初の学術調査であり、重要な位置を占めています。また、明治期の「横穴」を巡る論争と絡んでの調査だけに興味がひかれるところです。しかし、以後90年、日の目を見ずに放置されたのは残念です。杉山氏はこうした横穴墓の状況から、市内横穴墓の実態調査を実施し、全体図や実測を行い基礎資料を収集したのは、画期的な事業であり、以後の横穴墓研究の土台をなすものといえます。平成5年の調査の結果、本横穴墓群は、標高40mから57mにかけて分布し、6から7段にわたって構築されていることが明らかにされました。さらに、56基の横穴墓の規模は市内最大で、県下でも有数な規模であることが判明しました。 | |
万田八重窪横穴群_全体写真 | |
万田八重窪横穴群_玄室に置かれた礫 | |
万田八重窪横穴群_遺物出土状況 | |
万田八重窪横穴群_遺物出土状況(2) | |
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