平塚の遺跡

諏訪前A遺跡

すわまえAいせき

最終更新 1998年5月

四之宮字諏訪前に所在し、砂州・砂丘に立地しています。現在まで10地点調査が行なわれていますが、報告は第1・3〜10地点までです。第1地点は四之宮下郷の3・4区に該当し、313基の遺構の内、住居址65軒・掘立柱建物址9棟住居址を確認しました。掘立柱建物址の最大規模は桁行7間(10、5m)・梁行2間(3、6m)の南北棟を検出しましたが、相対的に県道拡幅という条件により確定出来るものがないのが残念です。8〜9世紀が主体です。住居址は7世紀後半から10世紀前半までの時期のもので、主体は9世紀後半にあります。遺物の中には墨書土器「大」・「刑」・「寺」・「富」、刻線土器、円面硯2点・転用硯、か帯3点、石帯2点、か具2点が出土しています。本地点は六ノ域第1地点と同様に官衙遺跡の一角と考えます。第3地点は掘立柱建物址8棟・住居址12軒を検出しました。掘立柱建物址は8世紀と10世紀、住居址は9世紀が中心となります。遺物の中で注目すべき物は1号掘立柱建物址から出土した墨書土器です。甲斐型の土師器坏底面に「家」の墨書の他に口縁部外面に水鳥の墨絵が対角線に描がれ、棟上げなどの慶事・祭祀に使用されたと報告されています。どのような出土状況かわかりませんが、地鎮の性格が考えられます。また、縄文土器勝坂式の完形の深鉢が逆位で出土しました。沖積低地での初の縄文完形土器の出土で、様々の問題を提起するものです。第4地点での住居址18軒は7世紀後半から10世紀後半までのもので、比較的継続的に存続したと考えます。出土遺物の特徴を上げると、墨書土器「垂」8点、銅か3点、円面硯2点や太刀の鍔があります。一般集落ではなく、官人層の住居域と考えます。第5地点は掘立柱建物址3棟・住居址24軒を検出しました。掘立3棟は9世紀であるのに対し、住居は8世紀後半から9世紀前半のものは確認されていません。遺物は灰釉陶器碗を転用した朱墨の硯や墨書土器「西」・「井」があります。第6地点は掘立柱建物址2棟・住居址23軒を検出しました。掘立2棟の時期は分かりません。住居は8世紀前半と9世紀後半以降のものが確認されています。遺物は透かしのある銅・巡方が出土している。第8地点は掘立柱建物址2棟・住居址6軒を検出し、掘立2棟は8世紀前半に対し、住居は8世紀前半と9世紀以降のものです。8世紀前半の掘立と住居は国府成立過程に絡んでいると考えます。第9地点は掘立柱建物址7棟・住居址5軒を検出され、掘立7棟の内3棟は7世紀後半、8世紀前半・後半に対し、住居は9世紀以降のものです。各地点の成果により、本遺跡は一般集落ではなく官衙関連遺跡の一角と考えます。その実態は分かりませんが、時期により官衙曹司群の一部分であったり、官人層の居住域であったりするなどその様相は一律ではないと考えます。

諏訪前A遺跡_全体写真

諏訪前A遺跡_堀立柱建物址

諏訪前A遺跡_堀立柱建物址の柱穴から出土した土器

諏訪前A遺跡_P141・P142遺物出土状況