四之宮字大会原・諏訪前。稲荷前に所在し、砂州・砂丘に立地しています。現在まで13地点調査が行なわれていますが、報告は第1〜12地点までです。第1地点は四之宮下郷のI区に該当します。掘立柱建物址7棟、竪穴住居址が28軒を検出しました。掘立柱建物址は9世紀、竪穴住居址は8世紀と10世紀が主体になり、六ノ域遺跡とは様相が異なっています。か帯2点、石帯2点、墨書土器「盛」・「郡」や刻線土器が出土しています。第3地点は掘立柱建物址1棟、竪穴住居址17軒が検出されています。9世紀後半以降のものが主体となります。か帯3点、墨書土器「政所」・「曹司」、刻線土器が出土しています。第4地点は掘立柱建物址5棟、竪穴住居址23軒が検出されています。9世紀代の掘立柱建物址を中心となり、竪穴住居址は7世紀後半から10世紀後半代に分散する傾向にあります。第5地点は土壙・溝状遺構が多く、特に土壙としたものには掘立柱建物址の可能性のあるものが多いと考えます。9世紀後半以降が主です。墨書土器「□住」、石帯、か具が出土しています。第6地点は9世紀後半以降の住居址と溝状遺構が主体です。第7・9地点は掘立柱建物址や住居址が検出されていますが、この地点での最大の成果は区画溝の検出といえます。規模は東西45m・南北63m、幅1、2〜1、3m、深さ1m前後を測り、溝の内側と外側に柱穴列が検出されています。この区画溝は8世紀中葉〜10世紀頃まで使用されたものとされ、その性格は伯耆国庁の規模を想定していることから、相模国府の政庁と判断したものと考えます。しかし、13地点の調査では想定した範囲まで延びなければならない区画溝は確認されておらず、政庁の区画溝と判断するには問題があるものと考えます。また、第7地点での住居址の分析でも7世紀後半から10世紀後半までのものがあり、政庁という場に住居址が存在するのも問題があると思います。さらに、この区画溝の内側に大規模な掘立柱建物址の片鱗が窺われないのも疑問視する点です。13地点での正式な報告によって明らかにされるものと考えます。第10〜12地点は9世紀後半以降に遺構が偏る傾向があるようです。全体的には掘立柱建物址は9世紀以降、住居址は8世紀と10世紀に主体があるようです。 | |
高林寺遺跡_区画溝 | |
高林寺遺跡_第3地点出土の「曹司」墨書土器 | |
高林寺遺跡_第3地点全体写真 | |
高林寺遺跡_「大住」墨書土器 | |
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