一昨日でプラネタリウム番組「見たか家康 家康の生涯を彩る天変」の投影が終了しました。というわけで、この徹底解説も今回が最終回。彼の晩年に出現したハレー彗星を取り上げましょう。

ハレー彗星(1P/Halley)はハリー彗星とも呼ばれ(正しい発音はこちらだとか)、恐らくもっとも有名な彗星の一つでしょう。紀元前から出現記録が残され、日本でも古くは『日本書紀』天武天皇十三年(684年)九月七日条に「壬申、彗星出于西北、長丈餘。」と記述があります。
ハレー彗星は太陽のまわりを公転する周期が約75年です。そのため、運が悪いと一生のうち一回も見ることができない可能性があります(かくいう筆者も4歳と79歳のとき……4歳のときは見られませんでした……79歳のときははたして……?)。家康は当時としては長命でしたので、見事、存命中にハレー彗星を迎えることができました。1607(慶長十二年)……家康66歳のときです。

家康自身がハレー彗星を見た、という記録は残念ながらありません。が、このときはたいそう立派な姿を見せたようで、9月下旬には北斗七星を横切る長大な尾を見せています。日本各地に観察記録が残されていますから、きっと家康も一度や二度は目にしたことでしょう。

ステラナビゲータ/アストロアーツで再現した1607年のハレー彗星

当時、家康は征夷大将軍の職を嫡男・秀忠に譲り、駿府でいわゆる大御所政治を始めていました。しかし、未だ大坂城の豊臣氏は健在で、家康はあの手この手を使って豊臣氏への圧迫を続けています。翌・慶長十三年(1608年)には豊臣秀頼を左大臣へと推挙する動きを封じ、親・徳川の九条忠栄を関白に据えています。将軍職を徳川家が世襲することを世に示しつつ、着々と”徳川の天下”を固めつつあった家康でしたが、加藤清正・福島正則・黒田長政・加藤嘉明といった秀吉子飼いの大名たちも存命中で、徳川家の行く末に不安も感じていたでしょう。そのようなときに出現した立派な彗星。未だ周期的に回帰する天体であるとは明らかにされていませんでした。家康はどのような思いでハレー彗星を見つめたでしょうか?
ところで、ハレー彗星とは関係ありませんが、『台徳院殿御實紀附録巻五』には二代将軍・秀忠が「彗星が凶兆というのは迷信である」と語ったというエピソードが残されています。実のところ、家康も大して気にしていなかったかもしれませんね(笑)

画像提供:国文学研究資料館

ハレー彗星は、その後も75年ごとに地球に近づき、様々なドラマを生み出してきました。1910年の回帰時には地球がハレー彗星の尾の中に入るという珍事(?)が起こり、科学的な観測で彗星の尾にシアンが含まれていることが明らかになった直後ということもあって、一部でパニックが起こったそうです。
1986年の回帰時は、あまり条件が良くなったものの非常に話題となり、平塚市博物館で開催したハレー彗星観察会には、博物館史上最多の800人超の参加者がありました。

1986年に出現したハレー彗星

ハレー彗星が次に見られるのは2061年の夏のこと。前回(1986年)よりは格段に条件がいいようです。ぜひ楽しみに待ちましょう……38年後!

さて、プラネタリウム番組「見たか家康 家康の生涯を彩る天変」、皆さんはご覧いただけたでしょうか?家康の生涯を天文現象という視点で追いかけた、ちょっと変わった番組だったかもしれませんが、お楽しみいただけたのであれば幸いです。大河ドラマの放送はまだ続きますので、どこかで復活投影をするかも?そのときは『広報ひらつか』や『あなたと博物館』等でお知らせしますので、ぜひチェックしてみてください。