現在投影中のプラネタリウム番組「見たか家康 家康の生涯を彩る天変」。当番組で取り上げた天文現象を深堀りする連載記事(?)の第5回は、天正五年(1577年)に出現した大彗星を取り上げましょう。

大河ドラマ『どうする家康』では、ついに家康の生涯最大の痛恨事とも言える「信康・築山殿事件」が描かれました。その2年前、高天神城を巡る攻防が行われている最中、まるで事件の前兆とも思わせるような彗星が出現します。前回も登場した『家忠日記』にも彗星出現の報が記録されていますが、この彗星は稀に見る大彗星でした。ヨーロッパではこのような版画も残されています。

『家忠日記』には、天正五年霜月(十一月)十五日条に「此の月十四、五日夜頃より彗星が出現した。」としか書かれておらず、非常にあっさりとしていますが、他の記述、例えば奈良・興福寺多聞院の僧・英俊は『多聞院日記』同年九月二十九日条に「彗星申酉ノ間ニ在之、ハハキノ(ほうきの)末辰巳ノ方ヘムク、光五六丈ニ見、大凶事天下ノ物怪也、如何々々、…。」と記していますし、公卿で京都吉田神社の神官であった吉田兼見は『兼見卿記』に「九月廿九日癸未、今夜客星帚星坤方、長サ七間斗、如月光、希代也、…。」と書き残しています。月の如く明るかった、というのは大袈裟だとは思うのですが、2007年に主に南半球で見られたマクノート彗星(C/2006 P1)は白昼にも見えたほどでしたから、それ以上の明るさだったのでしょう。英俊が「大凶事」「天下ノ物怪」と恐れたのも頷けます。

”2007年の大彗星”とも呼ばれたマクノート彗星 画像提供:ESO/Sebastian Deiries

天正五年に出現した彗星は、現在ではC/1577 V1と味気ない数字とアルファベットの羅列で呼ばれていますが、当時、巷では「弾正星」とか「松永星」とか呼ばれていたそうです。後の時代の編さん物になりますが、寛永年間に成立した『当代記』(『信長公記』などいくつかの記録類を再編した二次資料)には「此秋、客星未申に在之、是を時人號松永星」とあります。
「弾正星」「松永星」の名の由来は、天正五年に信長に反旗を翻した松永弾正久秀です。元は三好長慶の重臣で京で権勢を振るっていた松永久秀は、天正五年八月、石山本願寺攻めの陣を突如引き払い、逆に本願寺や毛利輝元、上杉謙信らと呼応して反信長の姿勢を明らかにし居城・信貴山城へ籠りました。
信長は嫡男・信忠を総大将とする軍勢を送り込み、十月十日、松永久秀は天守に火をかけて自害しました。そのとき、名茶器・平蜘蛛を叩き割った、中に火薬を詰めて平蜘蛛とともに爆死した、といった風説が流れています。彼が籠城中に彗星が出現し、彼が自害した頃には大きく弧を描いた尾を持つ彗星が宵の空で圧倒的な存在感を放っていたことと、彼の死にざまが結び付けられたのでしょう。

落合芳幾筆『太平記英勇伝:松永弾正久秀』

なお、家康と松永久秀は、面識はありましたが、どこまで親しかったかはわかりません。信貴山城攻めにも家康は加わっていませんから、「弾正星」や「松永星」という呼び名も、おそらく家康は知らなかったでしょう。
とはいえ、彗星自体は家臣が日記に記しているくらいですし、一夜限りの天文現象ではありませんから、きっと何度か目にしたのではないでしょうか。古来、凶兆とされた彗星。それを見た家康の心中はいかに?武田の脅威はひと段落していた時期ですが……まさか二年後に妻子を失うことになろうとは、当時の家康は思いもよらなかったのではないでしょうか(その前後では武田との戦い……小山城攻めなどで活躍していて家康との関係もまだ悪くなかったはずです)。

ところで気になるのは『家忠日記』の記述です。日記に彗星のことが書かれたのは天正五年十一月十五日のこと。この頃には件の彗星は太陽からも地球からもだいぶ遠ざかり、肉眼で見えるほどの明るさではあったものの、往時の姿とは比べ物にならないくらい貧相に見えたはずです。そもそも多聞院英俊も吉田兼見も九月二十九日には彗星の姿を認めているわけで……家忠がなぜ十一月になって「彗星が出現した」と書いたのか……。ずっと曇っていた?空を見上げる余裕がなかった?それでも噂くらい耳にしていそうですが……。