現在投影中のプラネタリウム番組「見たか家康 家康の生涯を彩る天変」。当番組で取り上げた天文現象を深堀りする連載記事(?)の第3回は「運命の天正十年」と題し、天正十年に起きた天文現象の数々を解説しましょう。
さて、六月二日と言えば明智光秀による織田信長への謀反、いわゆる「本能寺の変」が起きた日です(新暦だと6月21日ですが)。そう、天正十年とは本能寺の変が起きた年。そして、この年には年明けから様々な天変が立て続けに起きていたのです。
まずは2月。天正十年二月十四日(1582年3月8日)、京などでオーロラが見られたという記録が残っています。オーロラは、アラスカや北欧で見られるという印象を持っている人が多いと思いますが、稀に日本でも見られることがあります。特に北海道では数年~十数年に一度くらいの頻度で見られ、「低緯度オーロラ」と呼ばれます。日本では赤気と呼ばれ、古くは『日本書紀』にも記録が残されています。
当時の公卿・勧修寺晴豊の日記『晴豊記』には「二月十四日、天晴、…(中略)…、雪少下、今夜天あかく、雲ことことしき事也、」と書かれていますし、当時の金融業者・立入家に残された『立入文書(たてりけもんじょ)』には「二月十四日、夜從北方赤雲天下をゝい、其色光明しゆのことし、…(後略)…」と記されています。宣教師ルイス・フライスも信長の居城があった安土でこのオーロラを見たようで、その様子や信長がオーロラが出現したにもかかわらず怖れずに甲州征伐の命を下したことを本国に書簡で報告しています。
当時、家康は織田勢と呼応して武田の領国である信濃国へ侵攻を開始した頃。家康は北の空が赤く染まる様を見たのでしょうか?
続く3月には大火球が現れたらしい記述が、古記録に散見されます。例えば、奈良・興福寺の僧・英俊らが書き残した『多聞院日記』には次のように記されています。「三月九日、一昨夜大霰後夜ノ過ニ下、當山光物飛去云々、如何心細者也、十二日、昨夜大雨下、風吹、先段方々光物飛、心細々々、…(後略)…」つまり、三月七日と三月十一日の夜に“光物”が空を飛んだということです。火球かどうかはわかりませんが、その可能性は高そうです。
4月には肉眼彗星が出現、非常に長大な尾を見せたそうです。先に登場した『多聞院日記』には「四月廿三日、近般當乾方彗星出了、光本は戌亥末は辰巳、長さ十丈も可在之と見、近年のなかき光也、物怪云々、…(後略)…」とあり、後にわざわざ「信長生害の先端也」と追記しています。別の記録(『立入文書』)には「…(前略)…自地直に立、末は長太刀なりにゆがみ、…(後略)…」とあり、2011年に出現したLovejoy彗星(C/2011 W3)のような姿をしていたのかもしれません。とにもかくにも、大彗星だったようです。古来、彗星の出現は凶兆として恐れられていました。英俊が「信長生害の…」と書いたのも、当時の誰もが心の中で思っていたことなのかもしれません。
6月(天正十年六月一日/1582年6月21日)には、日本では太陽が半分ほど欠ける部分日食が起きました(当時、畿内は天気が悪く日食そのものは見られなかったのですが)。そして、翌日未明、明智光秀率いる1万3000の軍勢が本能寺を取り囲んだのです。
本能寺の変は、家康にも衝撃を与えました。当時、わずかな供回りとともに和泉国堺に滞在中だった家康。光秀謀反の一報を受け、一時は後を追うことも考えたようです。しかし、家臣の説得を受け伊賀国を超えて岡崎へ帰ることを決心します。いわゆる「神君伊賀越え」です。
家康の生涯に大きな影響を与えた天正十年。実は様々な天変が頻発していた一年だったのです。
【追記】
天文現象ではありませんが、天正十年、というか1582年には天文学に関わる画期的なできごとがヨーロッパで起きています。ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦です。このことは、また別の機会にご紹介したいと思います。