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ひらつか歴史紀行 |
第45回 近世平塚の領主 その2(地方直しと領主の変遷) (2013年6月号)
前回は近世初頭の平塚市域の領主についてみました。天正18年(1590)、徳川家康の江戸城入城後、相模国の半分は徳川氏直轄領となり、なかでも平塚市域が多く含まれる大住郡は、ほとんどが徳川氏直轄領(幕府領)となったこと、その支配は慶長15年(1610)以降、中原代官がおこなったことをみました。今回は平塚市域の領主配置を大きく変えた「地方直し(じかたなおし)」について、みていきたいと思います。
地方直しとは、蔵米取りの旗本の俸禄を、知行地(領地)に改めて与えることをいいます。旗本の財政救済や組織再編などがその目的といわれています。なかでも寛永10年(1633)と元禄10年(1697)の地方直しは規模が大きく、この2度の地方直しで平塚市域の領主配置は大きく塗りかえられました。
図1は徳川家康が江戸に入城して間もない文禄期(1592~1595)の平塚市域村々の領主配置、図2は地方直しを経た天保期(1830~1843)の領主配置です。これをくらべると、文禄期はほとんどの村が徳川氏直轄領であったのが、天保期にはほとんどが旗本領になったことがわかります。ただ、平塚宿・平塚新宿や須賀村など交通の要所は幕府領のままです(ただし、天保14年以降小田原藩領)。
【図1】文禄期における平塚市域の領地 | 【図2】天保期における平塚市域の領地 ※平塚宿・平塚新宿・須賀村は天保14年から小田原藩領 |
さて、元禄の地方直しで、旗本領が圧倒的に多くなった平塚市域ですが、平塚市域の旗本領の特徴として「相給(あいきゅう)」の村々が多いことがあげられます。相給とは、一村が複数の領主の領地になっていることをいい、たとえば一村を3人の領主が支配していれば「三給」といいます。各領主ごとに村役人が置かれるので、三給であれば一村に名主が3人いることになります。
下掲の史料は宝永5年(1708)年閏正月に作成されたもので、前年11月の富士噴火後における北金目村の様子を記した報告書です。この史料には富士噴火で砂が7~8寸(約21~24センチメートル)積もったなど、富士噴火後の地域の様子がうかがえる史料として興味深いものですが、ここで注目したいのは冒頭部分の書き上げです。ここには北金目村を支配した7人の領主とその石高が記され、最後に各知行地ごとの村役人の署名があります(2名欠)。ここから宝永5年の北金目村は、図3にみられる割合で7人の領主の分割支配を受ける「七給」の村であったことがわかります。なお、北金目村が相給村になったのは、元禄10年の地方直しによります。
宝永5年(1708)閏正月 富士噴火砂降り後村柄書上(北金目村 寄託文書) |
【図3】北金目村の領主と知行地 |
【参考文献】
春期特別展図録「近世平塚への招待-館蔵資料で見る23題 2005年
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