7 生活を語る土器



●土器から見えること
 土器の出現が縄文時代の始まりで、土器は煮沸具として出現します。食生活の拡大と人口の増大につながる画期的な道具として評価することができます。やがて、煮沸具としての機能から、次第に様々な用途にあった容器に変化していきます。
 土器の形・文様・成形技法の変化は考古学を研究する上で基本となります。というのは、遺跡から一番多く出土するのが土器だからです。他の道具より変化の多い土器は時間の物差しとして使われます。
 それぞれの時代の土器を見ていくと、緩やかですが微妙に変化していくことがわかります。この微妙な変化を見極めることで、その時代に生きた人びとのくらしを再現することができます。
 土器は一律に変化するのではなく、ある一定の地域の気候・風土や植生の影響を受け、しかも他地域との交流(交易)を通して、文化圏が形成されます。この文化圏どうしも交流を行いますので、地域ごとの様相が錯綜します。土器から人間のダイナミックな活動を読みとることができます。ぜひ、一つ一つの土器から生活の裏側を覗いて見て下さい。
 多くの遺跡は調査が終わると失われていきますが、一つ一つの遺跡にはその時代を生きた人びとのくらしが凝縮されています。そのくらしを復元するのが考古学です。
 年表に平塚市の代表的な遺跡を示しました。自分なりに調べて歴史像を創るのも考古学を楽しむ一つの方法かと思います。


●勝坂式土器と文化圏
 勝坂式土器は神奈川県相模原市勝坂遺跡出土の土器を標式資料とし、縄文中期の前半に位置づけされています。中部地方の影響を受けて成立したと考えられます。
 勝坂式土器は時間的に大きく3段階に分かれています。1段階は結節沈線(半裁竹管などの工具を押し引いて沈線の中に節を創った文様)から横帯文(文様が横方向へ帯状に展開する文様)を多用。2段階は抽象文(人や動物のような形をした文様)。3段階は口縁部を無文とするものと口縁部に文様帯が展開するもの。
 右図のように勝坂式文化圏は南関東から中部地方の範囲ですが、その周りの文化圏との交流も盛んに行われていることは、他の文化圏の土器や石器等の出土が物語っています。


勝坂式文化圏と他地域との関係
(「図解・日本の人類遺跡」より加筆修正)


●古墳時代の土器

古墳時代になると大陸から「窯」で焼く技術が伝わり、独自の焼き物を生産します。須恵器と呼ばれる黒灰色〜青色の焼き物です。この土器は煮沸具には適していませんので、液体等の貯蔵容器・食器に主に使われます。また、古墳の副葬品にも使われます。右の写真で比較して下さい。6世紀後半の土師器坏(左)と須恵器坏(右)です。土師器坏は須恵器坏を真似て作った物です。須恵器坏は静岡県の湖西窯で作られた物です。

土師器坏と須恵器坏

●古代の焼き物の生産地と流通
 古墳時代後期(6世紀)になると畿内で発達した須恵器生産が東海地方や関東地方にも伝わり、多くの窯が造られるようになりますが、基本的には神奈川県の地域には窯はできませんでした。そのため、須恵器は他国で生産された製品が搬入されます。7〜8世紀前半までは静岡県の湖西窯産の須恵器、以後、埼玉県の比企窯産が、9世紀後半になると東京都の御殿窯産の製品が入ります。
 9世紀〜11世紀の灰釉陶器・緑釉陶器の窯は関東地方にありませんので、愛知県・岐阜県・京都府の製品が入ります。特に平塚での出土量が関東地方でも群を抜いているのは国府が置かれたことに起因すると考えます。


灰釉陶器

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