9 五領ヶ台くらし
●五領ヶ台貝塚の位置と周辺の貝塚
五領ヶ台貝塚は平塚市広川字五領ヶ台に所在します。貝塚は大磯丘陵東縁の北東に張り出した舌状台地斜面に立地し、東と西に分布しています。
縄文時代の地形は現在と大きく異なり、気候が暖かいために、海が奥深く入り込んでいます。縄文海進と言います。その後、縄文時代中期の五領ヶ台貝塚が作られた頃には、低地が形成されていたと考えられますが、集落はまだ発見されていません。周辺の貝塚には、万田貝塚(平塚市)、西方貝塚(茅ヶ崎市)、堤貝塚(茅ヶ崎市)、遠藤貝塚(藤沢市)、羽根尾貝塚(小田原市)などがあり、縄文時代前期・中期・後期の貝塚が点在しています。貝塚は海辺の近くや海に入り込む河川によって開析された台地に作られています。
周辺の貝塚分布(2004「縄文の技と美」より加筆修正)
●貝塚から出土したもの
土器、石器、貝類を中心に出土しています。土器は縄文時代早期・前期・中期・後期、弥生土器、土師器、陶磁器が出土していますが、縄文時代中期が主体です。石器は打製石斧、磨製石斧、石錘、石鏃、石匙、敲石、磨石、石皿、凹石等が出土しています。貝類はダンベイキシャゴを主体に 27種の貝が見つかっています。その他に、クジラ、イルカ、サメ、スズキ、マダイ、シカ、イノシシ、カラス、カモ、ヤマカガシなど多くの骨が出土しています。貝塚は縄文人の食料を知る上で大変重要ですが、同時にどのような環境であったかもわかります。
打製石斧・磨製石斧
石錘
イルカの骨
クジラの骨
●五領ヶ台式土器とは
五領ヶ台式土器は縄文時代中期初頭に位置づけされています。発掘された五領ヶ台貝塚の地名から設定され、基準遺跡となった貝塚は昭和47年には国指定史蹟になり、平塚市が誇る代表的な遺跡の一つです。遺跡を掘るとたくさんの土器が出土します。そのために、時代・年代を与える基準として土器が使われます。土器の形、文様構成、胎土を観察すると、時代ごとに変化し、さらに各時代の中にも様々な土器があります。その様々な土器を時間軸と空間軸に配列し、前後の土器と異なったときに、土器型式が与えられます。五領ヶ台式土器も新たな型式として設定された土器です。 五領ヶ台式土器の文様の特徴は細線文・三角印刻文を基調として縦に施文された帯縄文の一群(縄文細線文土器)と半裁竹管による集合沈線の一群(集合沈線文土器)に分かれます。五領ヶ台貝塚から出土した土器は後者の文様をもった土器が多く発見され、五領ヶ台式土器でも新しい時期とされています。
五領ヶ台式土器
●狩猟の道具に使われた石鏃と黒曜石
石鏃は黒曜石を主な原料とします。この黒曜石は産地が限られており、どこでも入手できるというものではありませんので、交易の対象になります。五領ヶ台貝塚の黒曜石は70%が伊豆七島の神津島産と同定されています。神津島産の黒曜石は関東一円の遺跡から見つかっていますので、広範囲に交易が行われていたことがわかります。縄文時代も情報ネットワークが発達していたことがわかります。
石鏃などの製品と黒曜石剥片
●五領ヶ台のくらし
貝塚から出土した資料と土壌分析から、当時のくらしと環境を再現しました。家族は台地に竪穴住居を造り、男性は力仕事を、女性は家事を、と役割を分担し暮らしていたようです。道具は全て手作りですが、一部の道具は交易品で補っています。食料は根菜類・堅果類を中心とし、肉・魚・貝も食べていました。四季の変化に恵まれた環境の中で、季節に応じた労働作業や食料採取を行っていたと考えられます。この時代に生まれた技術や道具は今の私たちの生活の母体となっています。
狩猟から帰る兄弟
家の中でお母さんが食事の準備
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