平塚の地形地質 (5.平野の地層をさぐる)

元慶2年(878)の相模・武蔵地震(岡崎の平野の地震断層)

最終更新 1998年5月

ここでは、伊勢原台地の西南端、平塚市岡崎丸島の平野で行われたボーリングにより明らかにされた伊勢原断層の活動について紹介しましょう。この調査は東京大学地震研究所と神奈川県立博物館等によって行われました(松田他1988)。伊勢原台地の西縁には直線的な崖が続き、伊勢原断層と呼ばれる断層の存在が古くから知られていました。しかしその活動時期については不明な点が多く、断層をまたぐ2地点でボーリングが行われました。下の図がその調査結果です。地表より15m程は泥炭質なシルト層ですが、海抜0m位以下は海成の貝殻を含む砂層となります。断層を挟む2つの地点で地層の高度を見ると、海成層の上面や泥層中に挟まれるスコリア層の高度が 1.6m程食い違っています。いずれも水中に堆積した地層ですから水平に堆積したはずで、この高度差は断層による変位と考えられました。貝殻や腐植物による年代測定も行われ、6000年〜1100年前の地層を変位させている事が明らかにされました。しかし江戸期の宝永年間に降下したスコリアの高さには変化がなく、平安期以降江戸期以前に断層が活動したものであると推定されています。  なお、このボーリング調査によりここでは約7800〜6000年前頃まで、海が進入していたことが明らかにされました。
伊勢原断層の活動は元慶2年の相模・武蔵国を襲った地震ではないかと考えられています(松田1989)。この地震は「元慶2年9月29日(878.11.1) M7.4 ・・・・死者多数、京都奈良で有感」(理科年表)と記され、丹沢東縁に震源がおかれています。この地震の震源断層は立川断層や国府津−松田断層の可能性もあるようですが、伊勢原断層である可能性は高いとされています。この活動時期と変位量から、伊勢原断層は5000年以上の間隔で、1.5m程度の変位を起こす断層であることが明らかにされました(松田他1988)。 この断層の南側は金目川の低地で覆われてわかりません。岡崎小学校東の台地上の山王久保遺跡では、平安時代の遺構を切る断層が見つかっており、この地震との関係が注目されます。

伊勢原断層(ハッチ部)とボーリング位置(丸印)
平塚市岡崎赤坂付近(松田他1988による)

伊勢原断層を挟む地層(松田1989)

岡崎山王久保遺跡の地震断層