平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

3つあった達上池

最終更新 1998年5月

 南原と上平塚の境にある達上池は、現在暗渠となってしまった下田川の低地の出口に位置しています。下田川の低地は、平塚市域の砂州・砂丘地帯では北側の谷川の低地と並び、最も大きな堤間凹地で、総合公園の東方に谷頭を持つ低地です。達上池の形成時期について、江戸時代の天保年間(1830〜1843)に徳川幕府によって編纂された新編相模国風土記稿を基に考えてみると、次のように考えられます。すなわち、江戸後期以降、この地域には少なくとも3つの池があったことは間違いなさそうです。現在の達上池は新池と呼ばれ、文化5(1808)年ないし文政11(1828)年6月の洪水により形成されたものと考えられます。この池は、現在とさほど変わらない大きさであったようです。
 陸軍参謀本部陸地測量部による明治24年の1/20000の地形図には、現在の達上池の他に西と南に一つずつ計3つの池が、明治末期〜昭和22年地形図には現在の池とその西側に1つの計2つの池が描かれています。この達上池の西側 100m(現達上ヶ丘公園駐車場)にあった池が、古池と呼ばれた池であるようで、西暦1700〜1800年頃形成され、昭和2年に埋め立てられたようです。
 また、明治24年の地形図に描かれている達上池南方の平塚農業高校南西にあった池は、瓢箪型をしており、瓢箪池と呼ばれていました。文化8(1811)年の平塚宿絵図に描かれていることから、おそらく文化5(1808)年8月の洪水により形成されたものと推測されます。明治41年の地形図にはみられないことから、それ以前に埋め立てられた様です。 これらの池はいづれも旧玉川(現渋田川)の氾濫の跡にできた河跡湖であり、達上池周辺は幾度となく玉川の堤防決壊により洪水を被ってきました。なお、ここには上平塚温泉(鉱泉)があり、明治中期から賑わったといわれます。

現在の達上池

明治期の古地形図 (明治41・42年)
1/20000伊勢原・平塚を使用

昭和期の古地形図 (昭和22年)
1/20000伊勢原・平塚を使用