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山王A遺跡

平塚の遺跡

山王A遺跡

さんのうAいせき

最終更新 1998年5月

四之宮字山王に所在し、砂州・砂丘に立地しています。現在まで4地点調査が行なわれ、第2・3地点の報告があります。第2地点は竪穴住居址1軒、溝状遺構11条が検出されています。竪穴住居は9〜10世紀のもので、8世紀のものはありません。11条の溝状遺構の内時期が判別したのは10世紀の4条です。この地点は砂丘から凹地への移行部、南に傾斜する「谷川」の斜面に立地するために、遺構の上でもその特質が反映されています。つまり、北側の砂丘は居住域、南側の凹地移行部は生産域となっており、立地条件を生かした生活圏が営まれています。遺物は墨書土器「|」や獣足の緑釉陶器壷破片が出土しています。官衙域ではかなりの量の緑釉陶器が出土していますが、獣足の壷は初めてです。第3地点は竪穴住居址9軒、溝状遺構8条が検出されました。竪穴住居は9〜10世紀のものが8軒、8世紀前半が1軒です。溝状遺構の内時期が判別したのは8・9・10世紀の各1条づつでです。遺物は「大住」の墨書土器が出土しています。第2・3地点からの本遺跡の傾向は、掘立柱建物址がなく、住居址や溝状遺構が主体となり、時期的にも9世紀以降が中心となっています。官衙に関連した性格を有すると判断するにはあまりにも資料が少なすぎます。しかし、第4地点(一部概要発表されています)は掘立柱建物址を中心とする内容で、特に8世紀後半の桁行4間(10、1m)・梁行3間(6、5m)の南北棟の大型の掘立柱建物址の柱穴掘り方内から、「佐波理匙」が出土しています。全国の出土例から官衙施設と考えられ、その施設の中でもかなり中心的な存在として機能したものと考えます。掘立柱建物群はさらに周囲に延びるものと判断されます。このように、遺跡内に於いては各遺跡でも指摘できることですが、立地や時期ごとにその状況はかなり変化しており、時間と空間の相関関係の中で位置付けていくことが必要と考えます。

山王A遺跡_全体写真

山王A遺跡_堀立柱建物址群

山王A遺跡_須恵器の破片に置かれた「佐波理匙」

山王A遺跡_「佐波理匙」(新羅産)


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