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城山横穴群

平塚の遺跡

城山横穴群

しろやまおうけつぐん

最終更新 1998年5月

岡崎字城山に所在し、伊勢原台地を刻んで矢崎北から西え延びる谷戸から分岐した、入山瀬の小さな谷戸の東・南向きの斜面に位置しています。横穴は東京軽石から吉岡軽石にかけての固結した暗褐色ローム層中に構築されています。この横穴墓の存在が世に出たのは赤星直忠氏の『穴の考古学』が初見で、2基報告されています。その後、昭和50年に博物館準備室1基調査し、平成4年・5年に12基の調査を、平塚市教育委員会が実施しています。横穴墓群は標高13〜17mのローム層を掘削して構築しており、赤星分を含めて計15基の存在が明らかにされています。横穴墓の構造は玄室平面形態が方形・長方形で前壁が良く残り、天井部形態がドーム形をなすものと、玄室平面形態が逆台形で前壁が退化し、天井部形態がアーチ形をなすものとに大きく分けられます。出土した遺物には、土師器・須恵器・中近世陶器・カワラケ、直刀・刀子・鉄鏃、か具・辻金具・しおで、金環・勾玉・管玉・丸玉・ガラス子玉・棗玉、人骨、馬骨が出土しました。構造と出土遺物から、本横穴墓群は6世紀後半から7世紀後半に造営されたものと考えます。7号横穴墓は玄室形態が長方形、天井部形態がアーチ型の家形をし、幅の狭い羨道部を有する構造で、初期横穴墓の構造体をとり、馬具や直刀のを出土は、このことを裏付けるものと考えます。興味深いものとして、玄室の前壁の2カ所に鉄鏃を転用した懸垂釘が発見されました。「釘を利用して幕を張り、玄室と羨道部を分けて聖なる玄室とし、死者の再生を願う儀式が執り行われた」との指摘があります。県内で2例目の発見になります。相模川流域においても、有数な初期横穴墓の一つと考えます。本横穴墓群は岡崎台地にあっては、唯一のものですが、この時期の集落は山王久保遺跡で確認されるにすぎません。横穴墓と集落の関係を解明していくには、不十分な状況ですが、この時期の「ムラ」の奥津城と推定したと思います。横穴墓群が所在する地域は、古代大住郡大服郷に比定されています。

城山横穴群_1から5号横穴墓

城山横穴群_6号横穴墓

城山横穴群_7号墓玄室部

城山横穴群_馬具出土状況


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